卒業と境について

去る3月5日、多くの高等学校において、卒業式が催されたようである。自分はもう高校の教員を既に辞めているが、関わることのできた生徒の内、最後の生徒が卒業の日を迎えたようである。彼らとの交流を絶ってから2年としばらくが経過しているが、その時間はどんなものだったろか、などと今考えると、一人一人に宇宙的な時間が存在して、辛いことも楽しいこともあったのではないかと思われる。なぜならば、それは自分の時間の経過がそうだったからである。

卒業とは何であろう。日常とは何だろうか。

節目というのは、日々の生活では問うことを忘れている問いを思い出させてくれる。それは自ら目覚める「自:覚」という形で訪れてくる。自覚された問いである。卒業とは何であろう。日常とは何だろうかと、突然、自覚が起こる。答えを見つけるのが困難そうな問いである。しかし、その問いを発するのは誰だろうか。主体は誰だろうか。

彼らとの授業の中で、アイデンティティ(同一性)ということを扱ったのは、授業開始後すぐのことであった。教科書では「アイデンティティの確立」が求められている、という社会的な主題を論じることになった。

アイデンティティとは、倫理学や哲学の主題であるのだが・・・。アイデンティティ(同一)はしかし、「自分らしさ」という極めて社会に馴染んだ社会学的な用語に束縛されているのだった。さて、その青年期の真っ只中にある高校生活を終えて果たして、アイデンティティの確立は、現実のものとなったのだろうか。私はただ、仕事だからこのような問いを発していたわけではなく、結構真面目に、このことを入学したての生徒に真剣に聞いていたのではないかと思う。これは年齢を問わない大切な問いであると当時の私には思われていたし、今も現にそう思っている。この問いを問うためには、アイデンティティとは何かを明らかにしなければならない。

アイデンティティとは何か。それは「私とは何か」という際どい問いへ向かう、はずであった。

高校二年生の後半から三年生になると進路のことを考えたのではないか。例えば国家資格を取ろうと思う私、大学へ進もうと思う私、就職しようと思う私、たくさんの自分があったのだと思う。生トマトが苦手な私、コーヒーが好きな私、これらが一般に私らしさと呼ばれるものである。しかし、これらは全て、問われ「た」私でしかない。傷つきやすい私もお調子者の私も、MBTIで見出された私も、全て全て問われ「た」私でしかない。言い換えれば、全部過去から「あぁ今思えば・・・・」と考えられ「た」私、振り返られ「た」私でしかない。これは私の影のようなものでしかないだろう。ならば、振り返られ「た」影としての私を認識するのは誰か。問われ「た」私を問うのは誰か。

それは「問う私」である。私らしさを認識する時には、私らしさを「問う私」が必ずいる。客観は主観がなければ存在できないように、問われる私には、必ず「問う私」がいる。[卒業とは何であろう。日常とは何だろうか。]と「問う私」。いままさにこの問いを問いつつあるこの私は誰なのか。これは観察の対象には決してならない私である。分析の対象になり得ない私である。なぜなら観察:分析の対象になって表現された時、それはもう既に見られ「た」私になってしまうからだ。私らしさはこれだと言った時、それはもう見られ「た」私でしかなく、その発見の時、「見る私」はいつも見失われる。「問う私」は隠れる。

実はこの問う私の解明こそ、私とは何であるのかという問いの答えへ通じている。アイデンティティへのヒントがある。問われた私、見られた私ではない、問「う」私見「る」私。この私の探究の過程で、「単なる人ではない人間」という呼び方の由来を知るだろう。私は、一番最初の授業でピュタゴラスについて伝えらている話をした。彼がした「知ることが畏(おそ)れを抱くほどの感動である」という体験。古代ギリシア人が「人間は知性的動物(ホモサピエンス)である」という定義をした真の意味を知るだろう。

さて、卒業生諸君は、何か一つでも感動するような純粋な学びがあっただろうか。私は短いお付き合いの中で、大切なことを学んだ気がしてならない。あの一瞬の時を誇りに思っている。この誇りを糧に、学んでいこうと思う。

卒業おめでとう。

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