社会は哲学を育てない

昨日、教え子から連絡が来た。すでに大学生活も半分以上を過ごしたらしい。その教え子に倫理の授業をした時はその子が高校一年生であった。教え子の伝えるところによると、就職が見えてきて”生き甲斐ってなんだろう”と考えるようになったのだという。その中で哲学者のYouTubeなどにたどり着いたらしい。そして曰く、「自分って中身空っぽだなと思えてき」て「自分について考えた方がいいかも」と思った。そういえば昔、倫理という哲学風の授業があったと、私に連絡してきたということだろうか。その子のキーワードに倫理(学)や哲学とあった。この分野に照明を当てたのは正解だと思う。

自分って中身空っぽだなと思えてきたというのはとても水分を含んだ言葉である。この言葉は、私って一体何なのかという問いを含むものである。その子は就職で社会に出ることを念頭に置いている。その自覚の上で「自分って中身空っぽだな」である。この言葉は痛いほどよくわかる。筆者が同じ大学生の頃、このまま、これという何かを得ないままに就職してよいのかと必死に悩んだことを思い出した。私が出した答えは何であったか。当時熱中しかけていた哲学の先生の講義をすべて受講することに決めたのだ。卒業要件である卒業論文の執筆を犠牲にして。よって私の卒業は2019年の春であったはずだが、秋を待たねばならなかった。その先生の紹介で2019年の春から2020年の春までは近隣大学の哲学講義も聴講することができた。私の大学生活の後半は哲学に明け暮れた。2019年の卒業後も聴講生の身分は続き、2020年の春まで学生生活は続いた。その頃になるとコロナウイルスが大流行。何か働こうと思って働き口を探したが、見つからなかった。そしてようやく職に就けたのは2020年の8月のことであった。高校の非常勤講師として。担当は公民科の「倫理」であった。今回の教え子はその時の教え子である。

教え子はまた、何か哲学を学ぶためにおすすめな本を教えて欲しいと伝えていた。嬉しくて、困る質問である。この記事で整理できるかどうか。

また教え子曰く、就職を見据えた大学生に「ありがち」な問いだそうだ。そうだろう。通常は、企業を選ぶために自己分析をするであろう。たこ(多分漢字は他己が該当する)分析という血筋が薄そうな言葉もあった。だから大学生は自己というものを考えがちというわけだろうか。確かに性格診断というものも進行形で流行っている。社会学でも心理学でも自己の分析をしてくれる。「私って統計的にこういう人間なんだ」と教えてくれる。これを世間では自己分析と呼んでいる。しかしそんな自己分析もさせられてきたであろうはずの教え子が、どうして、「自分って中身空っぽだなと思」うのだろうか。それは自己分析によって光るものがなかったとか、社会的に武器となるようなものがなかったという問題ではないと思う。そんな社会で評価される自己の特性を知りたかったのではないと思う。リーダータイプとか分析者タイプとか内向的とか外交的とかそんな傾向を知りたかったのではないと思う。思うに、生き甲斐を得るはずの「私とは一体誰なのか」という深いところから発せられた問いなのではないか。生き甲斐という言葉であったが、この生き甲斐は単なる快楽の追求ではないく、例えば人生という言葉の重さに通じるような意味での生き甲斐である。

学校教育をはじめ、広く社会で取り扱われる自己とはいつも社会から見られた自己である。これを社会的自己と呼ぶ。社会から認められる私である。例えば、「◯◯大学の学生である」「◯◯会社の社長である」「男である」「女である」「日本国民である」これらが社会的自己である。「自分はコミュニケーションを取るのが得意な人間です」これらの性格ですら、広い意味で社会から評価される自己であるから社会的自己である。性格診断や心理学も従って広い意味で社会的自己である。これからの社会的自己を無限に集めたとする。それでもこの教え子の発する「私とは一体誰なのか」「私とは一体何であるか」の答えはないのである。これは社会、特に近代化された社会の中では隠された問いである。だから一瞬の違和感に過ぎないかも知れない。就職してしまえば、忙しい日常の中で見失われてしまう事例ばかりだろう。例えばハイデガーはこれを自己の忘却として、警告している。

しかし、やっぱり「この世界が開かれる主体」であるところの「私」というものがわかってこそ、生きがいや幸福ということもわかるのではあるまいか。それは「正義とはAかBかそれともCか?」と探す前に、正義とはそもそも何であるかがわかっていなければAかBかと判定できないのと同じである。「私とは一体なんであるか」これは実は古来から哲学の問いである。あらゆることを根本から知ろうとする哲学の問いである。哲学とは知に対する愛のことであった。知といってもたくさんの知識のことではなく、あらゆる学説のことでもなく、この世界の根本についての知でなければならなかった。そのような根本知に到達できるだろうか。

私たちは自己を忘却し、忘却したという事実も忘却してしまった。忘却の忘却である。課題を忘れたのなら思い出す可能性がある。しかし課題を忘れたという事実も忘れてしまったらもう、思い出すことはないわけである。しかし大抵はこのような生き方になってしまう。大切なことを忘れて、無自覚に生きる私たちに近代の大詩人は言っている。

私たちのほとんどは不精(怠ける)な頭をもち、探究の心に乏しく、虚栄ばかりに心を奪われ、感情は熱くも冷たくもなくただぬるんでいる。そのゆえに大きく疑うこともできなければ、大きく信ずることもできない。大抵の人は…(略)…自らを懐疑主義とか、または無神論者と呼ぶ。しかしそれは大方、何事をも結論まで考え抜くことをいやがる心持ちを隠そうとする単なる擬態にすぎない。

T.Sエリオット『マキャヴェリ論』

性格診断で統計を自分に当てはめて自己を知った気になっているのも、擬態ではないか。大切なことは忘れて。

この忘却から目覚めて、あらゆることを根本から知ろうとするところに哲学があるはずである。それはあたかもソクラテスが洞窟の囚人に外の明るい世界を見せようとしたように。(洞窟の比喩)

ここで少し展開した哲学の意味、哲学が求めるものについてとてもよく書かれた本は、田中美知太郎の『哲学初歩』(岩波現代文庫)がおすすめである。自己ということに限って言えば、上田閑照の『私とは何か』(岩波新書)はとてもいい本である。しかしどちらもすんなり読めなところはあるかも知れない。

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