最近の風潮は、おかしいことを嫌う。平均でいることが正義であるかのように。それと似ることにして、おかしいという言葉に嫌悪の目が向けられることしばしばである。そのおかしさには現代特有に薄められたラベルが貼られている。たとえば心の病や発達障害などがそれではないか。心の病気には鬱という言葉も現代人は特に敏感であろう。そしてこの鬱を克服しようとするのも人間の道であるはずであった。しかし現実はどうだろうか。社会が鬱であることを、心の病であることをかばっている。無理させてはいけないと世間がいう。あの子は発達障害があるからと教育現場では言われる。ここでこれらの「障碍(本当は障害ではない)」は守られる。保存する形で守られる。いや守ると見せかけた保存である。これも一種のおかしさの対応なのかもしれない。これを世間一般の表現に戻せば、やり過ごすとでも言えばいいか。おかしさを狂気と呼んで研究した哲学者がいる。それはプラトンである。
プラトンは著書『パイドロス』の中でそれを語っている。恋は盲目と言われるところから、心の病と表現されることもある。プラトンはこれを一種の狂気と呼ぶことにした。私たちは狂気というと正気が狂ったもの、”普通”を欠いたものと考え、正気をプラスとすれば狂気をマイナスだと思っている。これは半分正しい。私たちは恋以外でもたくさんの狂気を知っている。例えば、計算間違えや人に嘘をつくときなどがあるであろう。生活上で狂気に陥る場面はとても多い。
しかしプラトンは狂気にはもう一つの面があることを指摘している。それは「授かる狂気」である。恋は盲目のその狂気は授かる狂気に該当するという。その狂気に授かってこそ、自分の知らない自分の秘めたる力に出会うわけである。これは自分を超えさせるものと呼んでもよいだろう。近代でカントという哲学者も言っている。
それは人間に自分自身を越えさせるものでなければならない。それは人格に他ならない。…(略)…人間はとかくどう見ても神聖とはいえないが、しかしその人格のうちにある人間性は彼にとって神聖なものでなければならない
カント『実践理性批判』
あたかもニーチェという哲学者が超人といったごとく。私たちは今、現時点の自分をどこかへ向かって超え出る、そのところで、人間となるのではなかったか。人と何かの間の存在としての、文字通り人間として。してみると、私たちが人間となる時は、狂気の時とも言えるわけである。
狂気とはおかしい時である。しかし私たちが何かを決断しり、何かを真に生み出すときは狂気であるとも言えるわけである。そうだとしたら、私たちがおかしさに嫌悪を向けるとしたら、私たちは同時に、人間となることもやめるわけである。私たちが遠ざけなければならない狂気は、自分自身を甘やかす狂気でなければならない。その狂気ではなく、「授かる狂気」もあることを一歩立ち止まって考えてみる必要があるのではないか。
もしかすると、そのおかしさの原因は、平均や普通ばかり求めて、「授かる狂気」に授かれないからではないかと。
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